昭和43年11月13日 朝の御理解
御理解第75節
「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」
ですからここに、目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれの、おしあ、お仕置きにあうが、とこう、言うておられます。ここんところはだから、もう、聞かんでもわかっておることですね。ここんとこはもう、頂かんでもわかっとる、それ以外のところが、んー御理解頂かなければ、ね。
人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃと、それが神の機感にかなわん、ね、神の機感にかなわん。神様の、お心、にかなわん。ですからどうしても、信心をさせて頂く者は、神様の機感にかなう、心にかなう、あり方にならせて下さいと言うて願うておるのでございますから、どうでもここんところはわからなきゃいけんことになるですね。
私はいまんところに、心で殺すのは神が見ておるぞと、いよいよ怖い感じがいたしますね。神様が見ておいでる。ね、いわゆる、神様がご承知の世界に生き抜くこと。しかも、実意丁寧、み教えを行じながら、奉じながら、生き抜くことが信心だと言われる所以が、ここにあるわけですね。
そこでです、ね、人を殺すと言うが心で殺すのが重い罪じゃと、言うておられる、人を、心で殺すと言うのはどういうことだろうかと。まあ極端に言えば、あー、何て言うですかね、お芝居じゃないですけれども、あの、お芝居の中にあの( ? )ね、あの草履敵討ちというのが(ございます?)。岩藤と、岩藤というのはもう、まっ悪人の代名詞のように言われ、あんやつばっかりは岩藤のごたる奴やっちゃというですね。岩藤か八汐のような人だと申しますが、岩藤とお初、尾上、三人でするお芝居ですね、これは。
あの、尾上なんかは、言うならば町人の娘で、えー、( ? )女中をしておる、ね。ところがその、岩藤という人は、もう、何て言うんですかね、今の言葉で言うと、もちろん( ? )女中の頭をしておりますが、いわゆるオールドミスなんですね。誰も貰い手がないとです。ですからその、若い、じょ、そん女中さん達がね、あの、若い者にちやほやされたりすると、それがもう、歯痒いわけです、ね。ですからその、いわゆる、その嫁いじりをするように、下の者いじりをするわけです、ね、いじめるわけです。
とりわけその、尾上は町人の娘でありながら、その、お殿様のご寵愛を受けるもんですから、いよいよそれが歯痒くてたまらんわけです、ね。そこでことごとにその、辱めたり、ことごとに、右と言やあ左、左と言やあ右というようにその、まあ言わば、いわゆる、この、心でこなすわけです、ね。その、ここ、その辱めを、あまりにも受ける。しかも満座の中で、その、辱めを受けるところにです、ね、尾上が、それ、それを苦にして、あの、自殺をするというのが、加賀見山っていうんですね、あれは。加賀見山っていうお芝居のテーマなんです。それを、( ? )するというのですね。これなんかは、例えばその、別に刀で殺したわけじゃない、剣で突いたわけでもないのですけれども、やはり、間違いなしにこれは、岩藤が殺したわけですよね。
ですから、そういう意味でも、そういう例は、しかし、いくらもあるんですよ。ね、学校の先生に、ある事を注意を受けた。それを苦にして、学生が死んだというようなことが、ようありましょうが。自殺する、苦にする、ね。あの人にひどいこと言われた、それが、苦になって、それでそれがとうとう、自殺という。手を下さないでも、これはやはり、殺した。
けども、ここで私は、頂くことは、そういう意味で本当に、死ぬとか生きるとかといったようなことではなくてですね、人の心を殺すと、肉体を殺すんではなくて、人の心を殺すと。人を殺すというのは、ね、心で殺すのだとおっしゃるのは、心で殺すということ。もちろん、その、自分の言うたことが相手の、おー、言うなら、致命的なところに触れていくといったようなことは、これは、もちろんいけません。
同時にその、心で殺す、ここ、心で心を殺すと、相手の、ね。または、傷つける。これは、傷つけてもやはり、生涯の罰を受けなきゃならないですね。( ? )さんでも、傷つけただけでもやはりそうです。ですから、心を傷つけるということも、殺すこともいけない。ところが、なかなか難しいんですよね。こちらは傷つけたつもりじゃないけれども、相手が傷ついておる。本当に、うかつなことがあります。こちらは殺したつもりじゃないけれども、相手の心が、その、死んでおるといったようなことにもなるのですから、本当にやはり、用心が必要ですね。
いわゆるあの、信心が、本当にでけなければ、( ? )難しい。けれども、難しいからと言うてこのみ教えは、ほっとくわけにはいけん。「神の機感にかなわん」とおっしゃる。神様、あなたの、お心にかないます私でありますように、どうぞ、あなたのお心にかなう一日でありますようにと言うて、祈りすがっておる私たちですから、あの、神の機感にかなわんようなことは言うたりしたりしてはいけないことをです、考えりゃ考えるほど、( ? )このみ教えはやはり、よく分からせてもらわないけんことがわかります。ね。
これは言葉だけじゃありません。態度で殺す場合もあります。態度で相手を傷つける場合があります。ですから、よくよく信心になっておかなきゃならない。そこで私は思うのですけれどね、その、殺すとか殺されると、おー、いうことですけども、まあ、あの最近はあの、あんなことをよく申しますでしょ、ね、殺さなければね、こっちが殺されるんだと、いうようなことを。ね、いわゆる、食うか食われるかの世の中だというのです。ね。殺さなかったら、こっちが殺されるんだと。ね。そこで、いわゆる、傷つけ合うたり、殺し合うたりが、平気で、なされるわけなんです。ね。
そこで私は、ならそれでもやはり、神の機感にかなうためには、それではいけないことが分かりますから、というて、こっちが殺されたっちゃ馬鹿らしいから、一つ、ころ、殺されんですむ私、傷つけられんですむ私。ね、壊れない、壊されない、いわゆる不壊です。不壊の心です。ね、金剛不壊とこう申します。ね。金剛石のように硬い心、ね、誰でも犯すことができない、殺すこともできない。そういう、心をこちら自身が頂く以外がないこと。
言うならば、殺す刀ではなくて、守る刀です。ね、正宗のようなものです。正宗という刀は、あれは人を傷つけたり、殺したりするのじゃない。自分を守るだけだ。反対に、村正なんかは反対。ね、もう、それこそ、( ? )なければおさまらないといったような刀。斬り合いにおいては、正宗よりも上だと言われた、ね。けどもその、抜いたが最後、( ? )っち言うような、そんな人がありますよね。
もう、口を開けば、相手を必ず、くず、傷つけるようなことを、言う人が、そんな人がありますよ。ね、だからそれでは神の機感にかなわん。どういう、よい信心しよっても、その、機感にかなわん、そのことが、いわゆる、最後に神が見ておるぞとおっしゃる、神が見て、見てござるのだから、それがおかげになるはずがないのです。もう、惜しいです、だから。
そこで、私どもが、ここにいわゆる、その自分の心を、その、どのような中にあっても、傷つけられない、殺されないですむ私。もちろん、ここに( ? )油断ができないというわけですね。いつも神様を心に頂き続けるということ。同時に、それだけではない。ただ自分を守るというだけじゃない。とにかく、相手を包含するというか、言うなら、74節にありますように、可愛いと思う心が神心じゃとおっしゃる、いよいよ、神心を強うしていくことに、精進しなければなりません。ね。
相手が、こっちを傷つけようと思うて、ぱーっと斬り込んでくる。それを見事に受けて、受けただけではない、それを抱擁していくという、生き方。可愛いものじゃと、気の毒な人じゃと、ね。という、いわゆる、神心をいよいよ、強うしていかなければならない。神心を強うしていくということと同時に、私どもの心というものをです、ね、自分で自分で守れるだけの、力を頂かなければならないという。ね。
力がないから、いわゆる、食うか食われるか。なら、まずこっちが食わなければ、まず先手を打たなければと。ぐずぐずしとったら、ね、こちらが殺されるんだと。というような、言うなら、世の中ですけれども、そこに信心のある者の、生き方が、はっきりしてこなければならんのでございます。ね、信心のある者とない者の違いが、そこになからなきゃいかんのです。ね。
そこで、教祖、その、ようなことについては、まあいろいろ教えておられますよねぇ。「打ち向かう者には負けて時節に任せよ」といったように、教えておられるわけなんです。ね、ここでは、成り行きをいよいよ大事にしていけと。ね。それを、時節をただ待つだけではなくて、むしろそれをね、大事にしていく。ね、そこんところを一つ、分からせてもらう。
同時にです、ね、結局その、人の、人を殺すという心ということ、ですから、自分を中心にしたものの考え方では、いけません。結局その、相手を中心にした考え方。これだったら、絶対傷つけんですむです。ね。傷つけられる前、前に、傷つけられんように、こちらが不壊の心を頂こう、いよいよ神心を強うしていこうと。これは、守っていくわけですね、自分の心を。
だから、相手の心を傷つけないためにです、ね、神心を強うしていくと同時に、相手の心になることです、相手の心に。こんなこと言うたら痛かろう、ね、こんなこと言うたら、ね、相手の痛いところに触るようなことであろうと、いうようにです、ね、相手の心になることなんです。ところが、相手の痛いことをわかっとるから、わざとそこをこうやって、その、( ? )ような人がありますよね。相手をぎゅうぎゅう言わせる。相手の痛いところをぶすっと、一突きで突くようなことを、す、言うたりしたりする人があるです。これはもう、いよいよ神の機感にかなわんのです。
けど、歯痒いことは歯痒いですよね。( ? )もうこちらが、こちらの痛いところ突かれるから、もうこっちもモヤモヤするけん、もう一遍で、一突きで向こうが参ってしまうようなことを、言いたいと思ってから、心の中で一生懸命考えよる。こんやつばぎゃふんっち言わする、手はなかじゃろかと思ってから。ね、そこんところを一つ、おかげ頂いて、相手の心になる。相手の心を中心、相手を中心にする。
昨日、こんな手紙がまいりました。えー、北九州の八幡、折尾の、(?)町に住んでおられる、みはし、みつはしとらのすけさんという。これはあの、いつでしたか、青年教師の、おー、信心実習会があった時に、講師にみえた方だと思います。みつはしとらのすけさん。あれが今度、17日の日に、( ? )というのは、この、九、あの北九州のですね、あの、小倉、八幡、若松、あの辺りの地区方の、いわゆる、筑水連合会のようなもので、( ? )連合会の、(?)連合会の、方達が、幹部だけ60名、こちらに、ご参拝のおかげを頂きたいと言うてきております。ちょうど17日はこう、青年会の総会が、ここで開かれますね、大会が。
けれども、んー、別に、えー、お参りしてくるだけだから、まっこちらは受けていかなきゃならんだと、こう思うのですけれども。最後に、ぜひ、その、ここの先生のお話を頂きたいから、まあ準備しとってくれということでございましょうかね。これはやっぱお説教なんか頼むときには、言うとかんとですね、( ? )言われたっちゃ、そんお説教はでけんと、こう言われるわけなんです、ね。ですから、その、どうぞよろしくお願いしますと。また、こちらでお昼食の準備でもしちゃならんという、心遣いからでしょう、あのお昼は原鶴でするようにいたしておりますから、というようなことも書き添えてある。だからもうこちらでは、まあ言うならお茶どもあげれば、もうそれでええぐらいじゃから、もうその日、青年会の方たちと一緒になるわけじゃないから、まあよかろうとこう、思っておるわけでございますけれども。
そのことを神様にお届けし、お届けさせて頂きよったらですね、あの、信心っていうものはね、あの、押し売りするものでもない、同時にね、売り惜しみをするものでも、なおさらないと。信心というものは押し売りするもんじゃない。ね、同時にです、なら、売り惜しみはなおさら、してはならない。これはね、場合によっちゃ、押し売りをしなきゃならん時もありますよね。ですから、もう、ここに本当に皆さんのようにですね、ここに、の教会に籍を置いて、もう親先生のおっしゃることはそのまま神様のおっしゃることだと、として、ここに信心の稽古に通ってくる人は、私がいかに押し付けがましゅう言うても、そげなんこつじゃいかんばい、こげんせなんいかんばいとこう言うても、皆さんがそれを有り難く買うて帰ってくださるわけですから、これは押し売りにはならんのです、ね。
けども、他所から来た、なら、ご信者さん方にですね、こういう生き方じゃなからなん間違いですよ、あんたんがたん生き方は間違っとる、そげなんこっちゃおかげは受けられん、こげんならなん、というような、言い方は、これはまさしく押し売りですね。もう、必死になってくると、そう、自分達がもうおかげを受けておるとですね、もう人んとが間違うとるごとしてこたえん。それも、相手が助かることのために、私はかくしておかげを頂いたから、こうなからにゃいかんと言うて、あの、まあ、力説をされる方も、まあまた私どももそうだったですね、過去においては、うん。
ですから、まあ右とあらば、ならお話をさせて頂こうと。それなら、今からお願いしとかないかんと思うて、神様にお願いさせて頂きよったら、信心は押し売りするものではない、同時に、ね、売り惜しみはなおさらいかんとおっしゃる。だから、いんや私のような信心、私のようなお話っち言うてその、あんまり謙遜、謙遜がっちゃいかんっちいうわけ。ね、これは売り惜しみを( ? )。
ね、相手が買いたいなら、何ぼでも売らなきゃいけん。というて、なら、押さえつけて、教えるようにですね、えー、押し売りをしてはなおさらならない、ということになった。そこで私は考えた。だから、結局、相手がいよいよ求めておられるもの、相手がいよいよ頂きたいというもの。それをね、向こうの方に聞こうと私はこう思うた。いわゆる、相手を中心に、というわけなんです。私が中心ではなくてです、ね、相手の皆さんの、心を、まっ言うなら、(?)をはかって、相手を中心に行こうとこう。
そこで、そん時にはまあ、いわば即興的にですね、例えばこの教典なら教典を、この教典の中から、あなた方が頂きたいと思う、み教えを、これから(?)ってください。そして、御理解、75節なら75節を教えてくださいと言やあ、75節を、本当のところを、ご神意のあるところを、お取次ぎさせて頂くごと、私はこう思うた。これなら間違いなしに、押し売りでもなからなければ、というて、謙遜しておるわけでもない、ね。もちろん、私が教えることが、できるはずもないのですから、神様にいわゆる、お取次ぎさせて頂こうと、こういう気にならせて頂いて。そういう生き方なんですよ。ね、相手を中心にした、相手の心を尊重しての、生き方。
これは、んなら、家庭の上においても、同じことが言えるのです。どうも、家内、子供となると、こちらが押し付けて、こうせなんいかん、ああせなんいかんということになってくるから、うちのお父さんはわがままな(?)とか、うちの親父はワンマンだと言ったようなことに、まっなるのじゃないでしょうか、ね。
そこで、えー、福岡の初代の、初代じゃない、あの三代の、吉木先生がいつも言うておられましたよね。「言うて聞かせてしてみせて、褒めてやらねば誰もせぬぞえ」と言うておられる。ね。言うて聞かせてしてみせて、褒めてやらねば誰もせぬぞえ。こういう生き方でいけば、相手を傷つけても、傷つけることもなからなければ、殺すこともないおかげが受けられると思うのです。
いくら言うて聞かせてちゃわからん。わかるはずがない、自分がしてみせんもんだから。ね、言うて聞かせるということは、やかましく小言を言うというのじゃない。ね。ですから、なるほど、うちの親父がしておることは、言うておることと一致しておるということにならなければいけないということなんです。口だけはもう、和尚のごたることばっかり言うけれども、お前のしておることはどうかと、いうことになってくるんじゃないでしょうかね。
言うて聞かせてしてみせて、褒めてやらねば誰もせぬぞえ。なるほど、自分の思いにはいかんでもです、(?)ようできたばい、そうそう、そういう生き方、そういう生き方でやりゃええばい、というようにです、やはり、それがぎこちなくても、それを褒めてやれるだけの、ゆとりというかね、豊かさというものを、が、欲しい。いくら教えたっちゃ同じこと、まだお前はできんか、という時に、相手の心を傷つけて殺してしまうわけなんです。
そこで、この御理解75節が、やはり、神の機感にかなわんということをです、私どもが心掛けさせて頂くならば、まず、人の心を傷つけたり、暗くしたり、ね、または殺したりするようなことを、を、心掛けなければならん。ために、まず、ね、殺されんなら、ころ、こちらが殺さなければこちらが殺されるといったような、思想の中にあってです、私どもが、信心のある者の生き方としてです、ね、殺されんですむだけの強いもの、いわゆるそれを、金剛不壊とこう、私は申しますですね。金剛不壊の心をいよいよ作っていく。同時に、いよいよ、神心を強うして、豊かになっていく、ね、可愛いものじゃという、神心をいよいよ作っていく。
私は、そういうことに、努力しなければです、どうぞ神様、今日もあなたの心にかないますように、ご機感にかなう一日でありますようにと言うて、いくら願うたってだめだと思うんです。そこに、ここんところに取り組まなかったら。ね、なぜそう、そりゃ、一番最後に怖いこと言うておられます。ね。「心で殺すのは神が見ておるぞ」とおっしゃっておられる。ね、人間のお仕置きよりも、神様のお仕置きの方がきついんだ。そこで、まっ一つの方法としてです、私が今、みつはしさんからきたお手紙に対する、神様のお答えのようにです。ね、押し売りをせん、と言うて、ね、売り惜しみをするようなことのない私。そして、相手を尊重し、相手を中心にしての、物の考え方に、こちらがならせて頂くということ。
そういうことにです、一つ、本気で取り組ませて頂くということがです、ね、相手の心を殺すということにならず、相手の心を弱っておる者には、いよいよ、それに強いものを与えるでしょう。元気を与えるでしょう。ね。心が真っ暗になっておる人に、言うならば、光を与えることができるでしょう。もう瀕死の状態、といったような人でも、ね、そういう、私どもが豊かな心、神心をもって、その人に接するならばです、そこからその人が救われ助かっていく、ことができるでしょう。ね、傷つけない、殺さない、というだけではなくて、傷ついておる人を癒していこう、死にかかっておる人を助けていこう、真っ暗な心の人を、に、光を与えよう、明かりを与えよう。ね、そういう、生き方にまで進んでいくことができると思うのでございます。どうぞ。
大坪ふく代